【連載「いま語る」69】「『伝えなければ』から『伝えたい』へ」中村里美さん(映画「アオギリにたくして」プロデューサー)

公開日:2017.04.27

 私は30年前、「ネバー・アゲイン・キャンペーン」という草の根ボランティア活動に参加しました。単身渡米し、アラスカ、オレゴン、ネバダ、カリフォルニア、オハイオ、ニューヨーク、マサチューセッツ各州の主に学校や教会などで、日本文化の紹介と共に、10フィート運動(米国原爆調査団の調査フィルムを10フィートずつ買い取る運動)によって制作された映画「にんげんをかえせ」やアニメ「ピカドン」などを上映し、1年間で約280回のプレゼンテーションを行いました。渡米前に、多くのヒバクシャの方々のお話を伺う機会をいただきました。 「自分と同じ苦しみや悲しみを、地球上の誰にもしてほしくない」と願い、全身全霊で「戦争はいけない」「核兵器はあってはならない」というメッセージを伝えてくださいました。「被爆体験のない私に一体何が伝えられるのだろう?」と不安でいっぱいだった私ですが、「伝えなければ」という気負いは、ヒバクシャの方々との出会いの中で、「伝えたい」という思いへと変化していきました。

 一緒に折り鶴をおった後で原爆映画を上映し、ヒバクシャのメッセージを伝えると、子どもたちからは、「この映画を世界のリーダーに見せて!」「ヒロシマ・ナガサキを二度と繰り返しちゃいけない!」「大きくなったら広島・長崎に必ず行くよ!」など、たくさんの感想が寄せられました。

 帰国し、外国人向け情報誌の編集長をした後、独立して異文化交流をテーマに雑誌の発行を続ける中で、あまりの忙しい日々が続き、体調を崩し、若い時に大事にしていた思いを失いそうになっていた頃がありました。そんな時に思い出したのは、ヒバクシャのメッセージを受け取った子どもたちの瞳です。その頃から、私は詩や曲をつくるようになり、2008年8月6日に歌と語りでヒロシマ・ナガサキを伝える初めてのライヴを行いました。お世話になったヒバクシャの方々が年々亡くなっていく中で、自分に出来る何かをしなければという思いからでした。被爆体験の朗読と、ヒロシマ・ナガサキを世界に伝える中で生まれた歌により構成されています。たくさんの皆様にご支援いただき、日本全国ライヴ行脚が始まりました。2010年秋には、米国ワシントンにある(財)カーネギー地球物理学研究所で初の海外ライヴと共に、広島市より届けられた被爆アオギリ2世の植樹が行われました。

 そんな中、ライヴ活動を応援してくださり、被爆体験の朗読をライヴの中でさせていただいていたヒバクシャの沼田鈴子さんが、3.11東日本大震災の4か月後に亡くなりました。沼田さんは、被災地の方々のことや福島の子どもたちのことを最後まで心配していました。亡くなる1か月前にお会いした時、体が弱って力の入らない握りこぶしを膝の上に立て、「死ぬのは簡単だけど、生きて伝えなければ」と言った沼田さんの言葉がいつまでも忘れられませんでした。

 沼田さんは、広島平和記念公園の被爆アオギリの木の下で被爆体験を語り継ぎ、被爆アオギリ2世・3世の苗に「いのちの大切さ」「平和の尊さ」への思いをたくし、日本全国、そして世界への植樹活動を呼びかけてきました。

 キノコ雲の下にいた一人の女性がどんな思いで生きて、被爆体験を語るに至ったかを描いていくことで、戦争体験のない世代が平和を考えるきっかけとなればという思いから、沼田さんをモデルに映画「アオギリにたくして」を制作しました。この映画を観た人が、どうしたら戦争になるのか、どうしたら防げるのか考え、平和を築くために語り合う場が広がっていくことを願っています。

 「アオギリにたくして」は、2013年夏に劇場公開されました。映画を観て感動した人が次々と企画をしてくださり、日本全国約400か所、700回の上映を行い、16年6月にはニューヨーク州とマサチューセッツ州で計6回の試写上映を行いました。コーディネートしてくださったのは、ネバー・アゲイン・キャンペーン代表で、マサチューセッツ州にあるBerkshire Community College元教授(平和学)のドナルド・レイスロップさん(82才)と奥様のマリオンさん(80才)です。現在、アメリカから約150件の上映オファーをいただいています。

 平和は、誰かに委ねたり、誰かから与えられるものではなく、私たち一人ひとりがつくり出していくもの。ヒロシマ・ナガサキをアメリカで伝えた体験は、振り返ると私の人生の原点です。

(談。まとめ:山口大輔、写真:荒井摂子)

なかむら・さとみ ㈱ミューズの里代表取締役、シンガーソングライター。