連載「いま語る」66「理想により現実の誤りを洞察するのが宗教者」山崎龍明さん(「北東アジア非核兵器地帯・宗教者声明」呼びかけ人、僧侶)
公開日:2017.07.15
2月12日、仏教やキリスト教を含む日本の宗教者4人が呼びかけ人となり、北東アジア非核兵器地帯の設立を求める宗教者の声明を発表しました※。私は、仏教者の立場から、この趣旨に賛同し、呼びかけ人に加わりました。
40年間、武蔵野大学で仏教学を教えてきましたが、仏教は平和学であると思っています。1962年、大学に入学しました。日本の仏教者と戦争の歴史について学ぶなかで、日本の仏教教団は100パーセント大変な戦争協力の教団であり、例外は一つとしてないという現実を目の当たりにしました。それが私の仏教者としての歩みの出発点となりました。
60年代の後半には、ベトナム戦争への日本の加担に関連してべ平連の運動が起きるのですが、なぜ多くの仏教者はベトナム戦争反対で声を上げないのかという疑問も湧きました。核のことで言えば、第五福竜丸の久保山愛吉さんの死、ビキニ環礁の核実験による大変な人間抑圧、こういうことに関しても仏教者が一言も何も言わない。そこには完全に二元論的思考があり、信仰は心の問題であり、社会の問題に関わるべきではないというわけです。私はそれを「世俗への蔑視」という呼び方をしています。核の平和利用についても、「もんじゅ」「ふげん」という高速増殖炉の名前がついたとき、この名を取り下げるべきであるという運動も行いました。原発は核武装と有機的に結び付いているということを、私たちは見失ってはなりません。
現代でも政治家の中に、日本核武装論が底流では大変強くあることに対して、私たちは警戒心を持たなければならないと思います。日本は、核兵器問題に対して大変な後進性を持っているのです。私たちが発言しなければどうなるんだという場に立たされていながら、いつも積極的な姿勢が見られないということを見てきました。やはり私たちはものを言っていかなければならない。
北朝鮮が核を持たねばならないと思うのは、核が有ればフセインは殺されることはなかったいう側面があります。私は核抑止論ではなく核危険論者(核廃止論)です。核というのは抑止力ではなく危険そのものだということを、認識として強く持っていなければならないのではないかと考えています。
自身の信仰から言いますと、仏陀は、「恐れが生じたから武器を持ったのではない。武器を持ったから恐れが生じたのである」と述べています。持てば必ず使いたくなるのです。持てば安全どころか、それが脅威になる、あるいは恐怖になるという言葉が、私自身が生きていく根本です。『聖書』の「汝、殺すなかれ」「まず剣をさやにおさめよ」に対して、仏陀は「殺してはならない。殺させてはならない」と言われた。これに尽きます。「殺してはならない。殺させてはならない」と私たち宗教者は口を開けば言うけれども、そのことが今日の社会的なさまざまな命の問題にきちっとリンクしていかなければならない。むしろ机上の空論になっているということを、自分の中に問うてみたい。経典に、仏の真実が人々に行きわたる世界は、「国豊かにして、民安らけく」、その次に「兵戈(ひょうが)無用」というのがあります。つまり兵隊も武器も無用である、武器を全く必要としない国ということです。
こんなことを言うと、憲法を含めて理想論だとしばしば批判されますが、私は理想を持たない人間は必ず堕落すると思っています。理想は理想であるが故に尊い。そしてその理想によって現実の誤りをきちっと洞察していく。それを担って生きていくのが宗教者の歩みではないかと思うのです。北東アジア非核兵器地帯の設立を支持する宗教者の声を集めていこうとの取り組みに関しても、やはり自分自身の身近なところから、一人でも多くの方々と共にこの方向に向かっての歩みを進めていきたいと考え、呼びかけ人にさせてもらいました。
また、今、安倍政権が集団的自衛権の行使を可能とすることを含めた安保法制を強行成立させ、日本を「戦争する国」にしようとしていることは、絶対に受け入れることはできません。この3月、戦争法は施行されてしまいましたが、宗教者九条の和の皆さんとともに、あくまでも廃止を求めて行動していきます。
存在そのものが罪科といっていい原発の稼働にくみし、憲法9条まで改悪していつでも戦争できる国にしたいと考える人々に、それを誤りと言えない者は宗教者ではないとの信念を持って生きていきたいと考えています。
(談。まとめ:湯浅一郎、写真:荒井摂子)