【連載「いま語る」65】 「自分の信仰の根本に立って行動することが一番」 小橋孝一さん(「北東アジア非核兵器地帯・宗教者声明」呼びかけ人、牧師)
公開日:2017.07.17
小学校2年生の時に、戦争が終わりました。学校では、二度と戦争はしないということで憲法9条ができたと教えてもらいました。子どもながらに日本はガラッと変わるんだと思いました。高校生になり教会に通い、牧師となり、半世紀以上、聖書にもとづいて命や平和の大切さを伝えてきました。
安倍政権が集団的自衛権の行使を可能とすることを含めた安保法制を強行成立させ、日本を「戦争する国」にしようとしていることは、自分の人生が全部ひっくり返されることになり、絶対に受け入れることはできません。この3月、戦争法は施行されてしまいましたが、あくまでも廃止を求めて行動していきます。日本は、戦争の悲惨さは学んだけれど、アジアを侵略したという加害者としての認識が浅いので、再び「戦争する国」になろうとする動きが出てくるのだと思います。
そうした中、2月12日、キリスト教や仏教を含む日本の宗教者4人が呼びかけ人となり、北東アジア非核兵器地帯の設立を求める宗教者の声明を発表しました。私は、キリスト者の立場から、この趣旨に賛同し、呼びかけ人に加わりました。それぞれの宗教が自分の信仰の根本に立って考え、行動することが一番力になる。そしてそれらが一緒に力を合わせてやっていけるということが、このキャンペーンの大きな趣旨であろうと思います。
キリスト者の立場から言うと、イエス様が自分が捕らえられるときに、弟子に向かって「剣(つるぎ)をさやに納めなさい。剣を取るものは剣によって滅びる」と言われた(新約聖書マタイによる福音書26章52節)。核兵器は究極の暴力、剣だと思うが、核兵器を取る者は核兵器によって滅びるというのは、歴然と今われわれの目の前にある事態です。要するに核兵器に依存して核兵器を相手に突きつける、それが平和を維持する手段だということはもはや言えない。2千年前にイエス様がおっしゃったように、核兵器を取ってそれによって身を守ろうというようなことは、自らを滅ぼす道なんです。これが、今の状況の中にイエス様が語りかけてくださっている声だと私は思っています。そのイエス様の考え、方針に従って、北東アジア非核兵器地帯を支持する宗教者声明の取組みを進めていきたいと思います。
一方、その立場から北東アジアの平和を考えてみたい。例えて言えば、ピストルを抜いて今にも撃つぞという構えを持っている者たちがズラッといる。その真ん中にピストルを持っていない者がいて、こんなにピストルを突きつけられるのならば、自分もピストルを持たなきゃいけない。そう思ってピストルを造ろうとすると、それを平和を乱す国だとかいろんなことを言われて、いろんな手段で制裁を加えられるという状況です。ピストルを突きつけている側が、自分たちがピストルを突きつけていることを念頭に置かないで、「あそこはピストルを造ろうとしている。けしからん、危ないということを、自分の後ろにいる者たちに宣伝しているというふうなことではないか。北東アジアの軍事的な緊張関係の構造は、単純化して言えばそういうことになる。
その上で、大切なことは、ピストルを造らせないためには、ピストルを突きつけている側が、少なくともピストルをしまわなきゃいかん。もうこのピストルは、絶対あなたには向けないということを宣言して、そしてこのピストルは徐々に廃棄していくということを明言して、その方向に動き出したときに、ピストルを造らなきゃいけないと必死になっている者も、もうピストルを造らなくても大丈夫かなということになるのではないか。そうしないでおいて、経済制裁だけを加えたってだめですよ。「言うことを聞かないなら飢え死にさせるぞ」。しかし、「欲しがりません勝つまでは」の精神が浸透していれば、飢えを我慢するということになりかねない。
まず自分たちがピストルを持ったり、ピストルで脅かすことをやめるということ。そうでなければ、ピストルを造ることをやめさせることはできない。イエス様がおっしゃるように、剣を取る者は剣によって滅びる。結局、ピストルを突きつけている側も、そのピストルによって自らが滅んでしまう。日本の国を守ろうとすれば、日本が核兵器に依存することをまずやめる。それ以外に日本の国の滅びをまぬがれる方法はないのです。宗教者声明の見出しは、「私たち日本の宗教者は、日本が『核の傘』依存を止め、北東アジア非核兵器地帯の設立に向かうことを求めます」となっています。まさに、私の考えそのものです。
(談。まとめ:湯浅一郎、写真:荒井摂子)