【新連載エッセー「全体を生きる」第1回】「タイトルの解題のために」 梅林宏道
公開日:2017.10.12
土山秀夫さんのあとを受けて、新しい連載コラムを書くことになった。
ちょうど12年前の同じ7月15日号に、土山さんの「被爆地の一角から」が始まった。土山さんは私とちょうど一回り上の丑年生まれなので、同じ80歳の同じ日に連載を始めるという縁起をかつがせて頂いた。ついでに言うと、私を継いでピースデポの代表になられた湯浅一郎さんは、私と一回り下の丑年生まれだ。
連載のタイトルを定めるのに迷った。土山さんの「被爆地の一角」という立ち位置は分かりやすくて、しかもインパクトがある。それに倣って私の立ち位置は何だろうかと問うてみた。ないわけではない。しかし、短く表現しようとするとなかなか難しい。いろいろと考えあぐねたのち、結局のところ最初に浮かんだ「全体を生きる」と決めることにした。周りの人たちに分かりにくいと評されたタイトルなので、第1回はこのタイトルに込めた私の考えを説明することに使いたいと思う。
私の人生を大きく変えた出来事は「ただの市民が戦車を止める会」という市民運動を始めたことであった。1972年、世界的なベトナム反戦運動のうねりの終盤期に起こった大きな闘争の中での行動であった。米陸軍相模補給廠で修理されベトナムの戦場に送り返されていた米軍戦車の輸送を、運動の力で少なくとも100日間阻止することができた。
「戦車を止める会」の運動がきっかけで、韓国民主化闘争と連帯する日韓民衆連帯運動、米海軍の核巡航ミサイル・トマホークの配備に反対するため、米軍基地反対の全国の市民運動がネットワークを形成した反トマ全国運動、同じ趣旨でアジア太平洋規模の国際ネットワークを結成して活動した太平洋軍備撤廃運動(PCDS)…と、私の市民運動は続き、それがNPO法人ピースデポ設立へと発展していった。
しかし、「戦車を止める会」を作って市民運動に飛び込んだきっかけは、私が米軍基地のすぐ近くに住んでいたという偶然の要素だけではなかった。私にとってはより根の深い思想形成の歩みからくる必然性があった。戦車闘争の数年前の1969年に、畏友山口幸夫らと同人誌「ぷろじぇ」を創刊していた。やがて高木仁三郎も加わった。それは科学技術者の生き方へのこだわりから生まれた思考と言論の場であった。
天文少年であり発明工作が好きであった私は、磁性物理学を専攻し、科学技術者として生きようとしていた。私はテレビのない時代の淡路島で高校時代までを過ごした。環境のせいにするわけではないが、極めて貧弱な思想形成をした無邪気な田舎出の若者として東京で大学生活を送った。大学院1年生のときに60年安保闘争があり、同い年の樺美智子が死んだ。その頃から少しずつ社会思想や哲学に関心を広げ、やがて相当な勢いでサルトル思想を読んだ。
サルトルの実存主義的マルクス主義は、私にとっては生きることの意味を考える手がかりであった。高度に科学技術が発達し、大量消費で人間の欲望を掻き立てながら突き進む社会において、科学技術者が人間らしく生きるとはどのような生き方なのだろうか?
この問いと向かい合うために、私は「ぷろじぇ」で科学技術の本質を考えようとした。そのとき「人間らしく」を考えるキーワードの一つとして「全体」という言葉があった。仕事は仕事、趣味は趣味として割り切るという考え方を否定し、「人間が一個の全体的な存在となる」、「人間としての全体を取り戻す」というような表現を「ぷろじぇ」発刊の辞は使っていた。
実際には「全体」という静止したものはない。また、一人の人間で取り戻せるような「全体」もないであろう。しかし、私には、個別の専門領域に留まっている知的実践を越えなければならないという確信があった。1980年、当時教えていた大学を辞めてフリーになった。世界の中の存在、歴史のその時間に生きる存在としての自分という立ち位置を選んだのである。