特別連載エッセー「被爆地の一角から」100(最終回)「エッセーの舞台裏」 土山 秀夫
公開日:2017.07.13
私のエッセーは今回で100回目を迎えます。切りのいい節目ですので私の方からお願いして、今日で拙論の掲載を終わらせていただきます。
読者の皆様には唐突にお感じかも知れませんが、実はこれまでも辞意を漏らしたことが2、3回はありました。しかし寛大な歴代の編集長から慰留をお受けしますと、ついズルズルと執筆を続けてきたというのが実際のところでした。
振り返ってみますと、初代の梅林宏道編集長からエッセーのご依頼をお受けし、第1作「臭いの記憶」を執筆したのが2005年7月15日(ピースデポ「核兵器・核実験モニター」第238号)ですから、毎月ほぼ1回として12年目に入ったことになります。「モニター誌の内容と少しでも関連があればテーマはご自由にお選び下さい」とのことでしたので、それなら何とか書き続けられるだろう、とどこか軽い気持ちで引き受けたのが大きな間違いでした。自由に選べるという点がかえって重圧となるのを知ったのは、かなり時を経た後のことでした。
ただ2010年位までは核兵器またはそれと関連のある政策について、曲がりなりにも忠実に被爆地の立場から批判を加えてきたつもりでした。その際、考えをまとめるのに示唆となった2つの委員会がありました。1つは日本学術会議「平和問題研究連絡委員会」という、大変長ったらしい名前の委員会です。ここでの6年間の特徴は文系・理系の約20名近くの委員が、元々は欧米先進国にくらべて低い扱いを受けている日本の「平和学」の普及、独立性を政府に答申する目的のものでした。またそれのみに捉われることなく、平和学を推進する上で阻害要因とみなされる分野にも切り込んだ自由な討論を旨としていました。例えば核兵器とその抑止論、憲法改正の可否(ちょうど衆参両院に憲法調査会が発足して間もなくだったため、同時進行的な討議の対象となった)などがそれでした。
もう1つの委員会は故伊藤一長・長崎市長に私がお願いして、市長の諮問機関(平和推進専門会議)として発足させてもらったもの。メンバーは元外交官、核軍縮専門家、編集ないし解説委員クラスのジャーナリスト、地元学者の各2名とし、外交官は4、5年でメンバーを交代する。1998年から現在に至るまで継続中で、被爆地の私たちが国内外に目配りする上で参考になる点が多々ありました。
ここまでの核兵器またはその政策に関するエッセーは、幸い東京のブックエース社から『平和文庫』の第3弾「核廃絶へのメッセージ――被爆地の一角から」としてすでに出版されています(2011年6月)。ところがここから私の筆は主に或る特定の人物に注がれていくようになります。理由は2つあります。第1は核兵器やその政策について書き進めていくうちに、私の方はたとえエッセーの形を取るにせよ、いつしか本誌であるモニター誌の視点と重複するように感じられてきたことです。しかしそれ以上に私が放置できないと考えたのは、その人物が信念と錯覚している独善的思想の持ち主である第2の点です。
その人物こそ、今を時めく自民党総裁、総理大臣安倍晋三氏その人です。氏は自民党の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の事務局長を務めたこともあってか、「戦後レジームからの脱却」をスローガンに、2度の首相時代を通じて戦後民主主義の打破と立憲主義の否定に突っ走ろうとしています。しかもその根底には、尊敬する祖父・岸信介を戦犯扱いにした連合国への呪詛にも似た私情を絡めているだけに厄介と言えます。
何はともあれ、長期間にわたってお付き合い下さった読者の皆様に心からお礼申し上げます。また貴重な誌面をご提供いただいた上、校正の労をお取り下さったピースデポのスタッフの皆様に感謝いたします。