特別連載エッセー「被爆地の一角から」99 「二兎を追う者は・・・」 土山 秀夫

北方領土問題の解決なくして日本の戦後は終わらず、と安倍首相は言うが。

公開日:2017.04.13

 去る11月3日、ロシアのマトビエンコ上院議長が長崎を訪れた。長崎原爆資料館、国立追悼平和祈念館の見学やロシア人墓地の参詣のためであった。それに先立つ11月1日、同議長は東京での記者会見で「北方四島におけるロシアの主権は明白で、疑問の余地はない。ロシアが実効支配している北方四島の主権を日本側に引き渡すことはできない」と強調していた。
 彼女の発言の真意について、地元のマスコミ関係者から筆者への質問があった。筆者は議長の発言がロシアの国内向けと対日本向けの2つの面からなされたのではないか、と答えた。ロシア指導部は、今年5月ソチで、9月にはウラジオストクで持たれた日ロ首脳会談を受けて、12月のプーチン大統領の訪日時に、北方領土の引き渡しに応じるのではないかという憶測が広まっていることを強く懸念している。その点を打ち消すための議長発言となったのではないか。それと同時に安倍首相の北方領土問題の解決を滲ませた矢継ぎ早な対ロ経済協力案提示など、明らかに焦りを読み取った大統領側が、12月の訪日時は領土問題を正式の議題とせず、それはあくまで平和条約締結後の話ですぞ、と日本側への厳しい姿勢を示したもの、というのが筆者の見解であった。
 日本政府が国後・択捉と歯舞・色丹の4島を、日本固有の「北方領土」だと定義したのは56年3月のことだ。同年10月18日、つまり翌日の日ソ共同宣言の調印前日、ロシアのフルシチョフ第1書記は、日本側に対して「領土問題を含む平和条約」とある表現から「領土問題を含む」という部分を削除させた。結局、宣言文には「平和条約の締結後にソ連が歯舞群島、色丹島を日本に引き渡す」と書かれているだけで時期は明示されていない。にもかかわらず日本側は、宣言の中に4島の領土問題が存在している(国後、択捉の明記はないのに!)と解釈して以後の交渉に当たるようになった。重大なズレはここに生じた。
 89年に東西冷戦が終結し、その後旧ソ連邦の崩壊とそれに続く混乱期の中で、ロシアの再建は大陸中央に集中するのが精一杯で、シベリアなど辺境地域は置き忘れられる情況にあった。むろん北方四島も例外ではなかった。当時のテレビ報道の一つに、色丹の食料品店だったかと記憶するが、ズラリと並んだ空のケースの映像と年配の店主の「この通り商売どころの話じゃねえんだ。政府は何一つしようとはしてくれない。こんな風ならいっそ日本でもどこでもいい。食べられるようにしてくれたら、その国の領地になった方がよっぽどましだよ」とぼやく場面が妙に印象に残った。
 その後は断続的に日ロの交渉が持たれたが、ロシア側は2島に限って協議する線を譲ろうとはしなかった。日本政府の中には、取りあえず2島返還の協議に応じては、と歩み寄りを見せる意見もありはした。しかし右翼を中心とした勢力からは「4島の一括返還こそ日本の国是だ」「2島返還にだまされるな」との強い圧力が掛かり、結局、ロシア側の同意を得ることはできなかった。情勢が変わってきたのはプーチン大統領の登場によってであった。彼はロシアの景気回復にらつ腕をふるい、その経済力をテコに北方四島を含む地域にまで開発を行き渡らせた。また日本側の要請に対して、大統領は日ソ共同宣言の原点に立ち返って、平和条約締結後に2島返還の話し合いを持つことを提案した。
 今年8月に色丹島住民のロシア人の声が報じられていたが、日本人と共同事業をすることは歓迎するが、戦争で犠牲を払った以上、島を日本に引き渡す必要はない、との意見が多かった。ソ連崩壊後の混乱期とは、島民の帰属意識にも変化が読み取れると理解すべきであろう。安倍首相は「北方領土問題の解決なくして日本の戦後は終わらず」というが、同じ言葉を絶叫した拉致問題が、全く進展のメドも立たない状況に在るのを何と感じているのだろうか。